「コーヒーと涙」
by kotonoha*

ベグド暦1336年6の月、1の日。
私にとって拷問の様な季節がまた始まる。
ゆっくりと身体を起こした私は目許に手をやり、呼吸を整える。
「父さん」
そして小さく呟く。「おはよう」

十分後、私はいつもの様に身繕いをし、廊下に出る。
私が勤めるこの光のルクシエメール魔法学院では、教員は全て「職員棟」と呼ばれる、学内にある施設に寝泊まりする事になっている。
学院の生徒――魔法生もまた、学内の「魔法生寮」にて生活を送る規則になっており、外出には学院長許可を必要とする。無断外出には処罰が下され、魔法教会からの要請や、身内に不幸があったなどの緊急時を除いては、外出許可がおりる事はまず無いだろう。

私は一呼吸つくと、学院の中庭へと歩いていく。
魔法とは便利なもので、自らの足で歩まずとも移動出来る手段が幾つも存在する。しかし朝から無駄な魔力を消耗したくないし、中庭までの距離もさほど遠いわけでは無い。
購買でコーヒーを買い、中庭に出る。心地よい初夏の風が吹き抜け、身を包み込む。ベンチに座り、コーヒーを傾けた時、見覚えのある魔法生が隣に腰掛けた。
「おはようございます」
彼女はやや冷たげな声で挨拶をする。

――B級魔法生5番、サリィ=デビッド、17歳。
学院に入学してから一ヶ月でB級魔法生に進級した天才魔法生。

魔法界において魔法を使える様になるのは17歳からだ。そして魔法学院における階級はD級魔法生から始まり、一定期間の学習を受け、定期的に行われる試験をパスする事でC級、B級、A級へと進級していく。学院入学から半年を経過してもC級魔法生から上がれないままの魔法生が大多数の中、彼女は一ヶ月目でB級魔法生試験を受け、あっさりと認定された。この様な成績優秀な魔法生には特例があり、通常は学院入学から一年以上の期間を設けなければ受けられないA級試験を、いつでも受けることが出来る様になる。

私はこの娘が苦手だった。
いや、恐れているのかも知れない。
自分とたった三歳しか違わないこの娘に、自分が苦して歩んで来た道に並ばれることが。そして、追い抜かれることが。
だから予期せぬ場所に現れ、予期せぬ彼女の挨拶に、私は思わず言葉が詰まる。
「コーヒー。早く飲まないと冷めるわよ」
彼女はこちらも見ず、話しかけてくる。
教員の私にすらいつもこんな喋り方だ。
「少し冷まして飲む方が味が引き立つのだ。子供には分からぬだろうがな」
「あっそ」
コーヒーの味には興味無さそうに答える。
「ここで何をしている」
私は尋ねる。
「外の空気を吸いに来ただけ」
サリィはさらりと答え、落ち窪んだ様な表情を虚空に向けている。眠そうに見える。相変わらず徹夜で勉強をしていたのだろうか。風にたなびく彼女の髪がその美しい横顔に影を作る。
「寝ていないのか?」
その質問に彼女は答えない。
彼女は自分の事をあまり語りたがらない。どんな勉強をすれば天才と呼ばれるまでのし上がれるのか、何でも出来る様に見えるが苦手な魔法はあるのか、どんな使い魔を持っているのか。――おそらくその全てを、この学院の誰も知らないだろう。
「泣いていたの?」
彼女は唐突に、こちらを見ず呟いた。
私は少し目を見開いた。
しかし彼女には気付かれていないはずだ。
「何の事だ」
私は平静を装って問い返す。「意味が分からぬ」
「目を見れば分かるわ」
そこで彼女は初めて私を見た。思わず目を反らしてしまい、逆にその反応が彼女の考えを確信させてしまった事に、私は自らの迂闊さを呪う。
「馬鹿な事を。徹夜明けで少し目が疲れているだけだ」
サリィはクスリと笑う。
「失恋?」
「泣いてなどいないと言っている」
私は少し言葉を強める。
「ホームシック?」
「黙れ、しつこいぞ。これ以上訊けば、20点減点させてもらう」
「20点ですって?」
彼女は微笑む。「"その程度"の減点で、教えてくれるの?」
「何?」
「2771点。それが私の今の評価」
「何だとっ?」
私は今度は本気で目を見開いてしまう。彼女は懐から生徒手帳を取り出し、魔法で操ると、ページを開いたまま宙に浮かべてみせた。3桁しか無い記載欄に、点数が大きくはみ出して刻まれている。
「…………」
私は言葉に詰まった。
「20点、どうぞ」
サリィは手帳を懐に戻し、笑う。
入学してから二ヶ月、誰に対しても興味の無い素振りしかして来なかった、冷たい少女。それが彼女に対する印象だった。それがどうしてここまで私の事で愉しげな表情を浮かべるのだろうか。
私は指を鳴らし、しっかりと20点を引いてやった上で、
「死んだ父を、思い出していた」
私は呟いた。彼女は黙って私の顔を見る。
「ちょうど十七年前の6の月。私が三歳の頃だ。……父は優秀な魔法教会の魔法士だった」

当時、アークギルド=ラクスラムトという名の貴族出身の天才魔法士の男が、太古の昔に地の底へと埋めたはずの禁書を掘り起こし、禁術の復元に成功するという事件があった。
アークギルドは優秀な魔法士の心を操り自分の手駒に変え、刃向かおうとする者はおぞましい禁術をかけて殺すという残虐な殺戮魔法を手に、魔法界を恐怖に陥れていた。
父は、彼の討伐に大いに貢献した。アークギルドの居宅に乗り込み、彼の手下を全て眠らせ、あと一歩まで追い詰めていたはずだった。
だが父は、彼を殺す事は出来なかった。
人質となっている百名の魔法士を助けるかわりに、自分一人が犠牲になるという卑劣な取引に敗れ、そして……。

私は決してあの時の父の様な真似は絶対にしない。
強くなれ。
情けは捨てろ。
目の前の敵を殺す事だけを考えろ。
何度も何度も、私はそれを強く胸に刻んだはずだった。
それなのに、
父の死んだ6の月になると、涙が流れてしまうのは一体何故だろうか。

――父さん、おはよう。
――それでも、僕は、僕のやり方で。

「……泣いているのか?」
彼女の目には涙が浮かんでいた。
私は結局彼女に多くを語らなかった。そのはずなのに。
「えっ」
サリィは驚いた様な反応を見せる。
私に言われて初めてそれに気付いたのか、彼女は涙を慌てて拭った。
「フフッ」
仕返しに鼻で笑ってやった。
「な、何を笑っているのよ。これは違うわ。徹夜続きで目が疲れただけっ!」
彼女は声を荒げて立ち上がった。「お腹が空いたわ。それじゃ!」
「お前の涙の理由は、訊かせてもらえるのだろうか」
私は尋ねた。
「……20点、追加してくれれば」
彼女は私に背を向けたまま答える。
私はコーヒーを一気に喉へと流し込むと、20点足してやる。
「いつか、ね」
サリィは悪戯っぽく笑うと、食堂へと消えて行った。
やられた。
私は舌打ちをすると、空の紙カップをゴミ箱に放り投げた。
――しかし。
サリィ=デビッドという少女の心に、少しだけ触れることが出来たのは、収穫だったかも知れない。

私はフーバルト=ビーフォース。
学院最年少18歳と2ヶ月でA級魔法生となり、卒業後教員として光のルクシエメール魔法学院に籍を置く者。
しかしきっと彼女は近い内にその記録を追い抜くだろう。
そして私は気付いている。
未だB級である彼女が、A級魔法生どころか、この学院のすべての教員の力をも越え、既に"S級魔法士"と呼ばれる称号に、近づきつつあることに。
――それならば。
私は彼女の消えた方向を見つめ、呟く。
――何としても、この目でそれを見届けねばならぬな。
そのために、私は情を捨て、冷たく魔法生達を鍛え続ける。
すべては彼女の成長のために。
すべては彼女の未来のために。