一日の始まりを告げる鳩時計の音に、私は目を覚ます。
どうやらゆうべは、本を読みながら眠ってしまったらしい。
ベッドの上に伏せられたその赤い本に手を触れ、私は今一度目を瞑る。
長い様で、短い夢。
短い様で、長い夢。
魔法の無い世界、魔法を使える私の、いや、"彼女"の冒険。
私の"父役"だったあの人も、
グラッタ熱に冒されたあの人も、
クレーグスという小さな村に派遣された私が、自らの魔法医人生を賭けてでも守りたかった、大切な人だ。
私は夢で、熱病の彼女を癒した。
しかし、私はあの夢で、"父"を癒せただろうか?
ふと、ノックの音が部屋に響いた。
「リセ、起きているかい」
本当の、父ルヴァンの声。
「ええ、起きています。お父様」
「では、早く身支度をしなさい。式が始まる二時間前には出発するよ」
「分かっています」
時計に目をやると、まだ七時を過ぎたばかり。
父は決してせっかちな性格では無い。
やはり緊張しているのだろう。無理も無い。
今日、私はこの家を出る。
リシャス家の者では無くなる。
私は身支度を済ませ、リビングへと下りた。
新聞を読みながらくつろぐ父の姿が目に入る。
朝食の準備をしている母の姿が目に入る。
父も、母も、あのゴルドールの家族とは似ても似つかない。
夢が夢であるということは、哀しいこと。
それでも私はこちらの世界を生きる。
あれは私であり、私で無い、"彼女"の世界なのだ。
それに……。
「おいで、ジャック」
母が、リビングの手前で落ち着かない様子のレトリバーに呼びかける。
「変ね。いつも、ご飯の時間になるとここに居るのに」
「今日は特別だからな。ジャックもそれを、分かっているのだろう」
父は新聞ごしに呟く。
私は目を細めながら愛犬ジャックを撫でた。
「お疲れ、冒険士さま」
父達に聞こえぬ様、小さくそう声をかける。
ジャックはきょとんとした様子で私を見たが、ご飯の匂いに誘われたのか、すぐにいつもの席へと歩いて行った。
朝食を終えても、時間は充分にあった。
私はジャックを連れ、散歩に出る。
秋の訪れを予感させる様な、涼しい朝だった。
シエナ一番街・クーブリック地区。
閑静かつ治安のいい住宅街で、泥棒どころか魔物の気配など微塵もない。
「おはよう、リセ」
ジョギング姿の青年が、私を追い抜きざまに声をかけてくる。
「おはよう、オルソ。いい朝ね」
私は軽く微笑む。
オルソは振り返り、私の歩く速度に合わせながら、
「今日、君の結婚式だろう? こんな所で、のんびりしていていいのかい?」
幼なじみの彼は眼鏡に指を当てながら、冷静に尋ねる。
「お昼過ぎからよ。父もオルソも、どうしてそんなにせっかちなの?」
「事故にでも遭ったらどうするんだ。こういう大切な日は、家で大人しくしていないと」
「心配性ね。こういう日だからこそ散歩して、気持ちを落ち着けたいの」
「やれやれ、まったく……」
オルソはそれ以上言葉が出て来なかったのか、私から一瞬目を反らした。
「……でもさ、気持ちを落ち着けたい……って言う割には、」
オルソが不思議そうに問いかける。「どう見ても、最初から落ち着いている様にしか、見えないけれど」
「そう?」
「ああ。とても嫁入り前とは思えないね」
「あの夢のおかげ、かな」
「夢? どんな?」
「内緒」
「聞かせてくれよ、幼なじみだろう」
「…………」
オルソが困った顔をしたので、私は吹きそうになる。
この人が狩人? あり得ない。
売れない絵描きの息子で、彼自身も前衛芸術と称しておかしなオブジェを組み立てている様な男だ。
「どうして笑うのさ? 僕が夢で、おかしな事でもしていたかい」
「おかしな事は、していないわ。むしろ、その逆かな」
「逆?」
「オルソ、貴方って弓は得意?」
「弓って……、あの、手で矢を射る、あの、弓の事かい?」
オルソは手で弓を引く仕草をしながら訊く。
構え方が逆だ。
「魔法史の授業で存在は知っているけど、実物は見た事すら無いよ。そもそも魔物を狩るのに、杖以外は必要無いだろう」
「夢の中でね、貴方が弓を持って、魔物をやっつけていたの」
「へえ」
「かっこよかったよ」
「夢の中の僕が褒められるって、微妙な気分になるね」
「誇っていいわよ?」
「嬉しくは無いね、それ」
オルソがまた眼鏡に指をやる。「で、それが落ち着いている理由なのかい?」
「色んな人の幸せをね、見てきたの」
私は答えた。彼は首をかしげる。
「私ね、"幸せになる"ということが、ずっと怖かった」
私の歩みが遅くなった事に気付いたのか、ジャックが立ち止まり、こちらを見る。
オルソも黙って私を見つめる。
「幸せになるためには、誰かが、あるいは何かが、代償となるでしょう?」
私は空を見上げる。
「父や母と、家族で過ごしたあの家と、別れなければいけない。ジャックも、あの人の元には連れてはいけない。もちろん、貴方とこうして言葉を交わす穏やかな朝も、明日からは無くなってしまうでしょう。幸せになるためにはそんな大きな代償が必要で、とても、怖かった」
オルソは黙って聞いている。
「だけどね、沢山の人が幸せになる姿を見て、苦しんでいる人なんて、あの夢には一人も居なかったんだ。そこにあったのは、曇りの無い笑顔だけだった。私はその優しい笑顔に救われたの。目が覚めたら不思議と心は晴れやかで、ずっと胸を覆い尽くしていた不安は、どこかへと消えてしまっていたわ」
「夢と、現実は違うよ」
彼は哀しげに口を開いた。
「"都合のいい現実"、それが夢だろう?」
「そうかも知れない」
私は空を見つめたまま微笑む。「でも、私はそんな夢に、癒やされた」
オルソは何も言わない。
私は自分の胸に手を当てる。
「あの子は、最後に、私を癒やしていったのね」
温かな風が、私達の間を通り抜ける。
オルソはやれやれ、と微笑むと、なびく髪に手を当てる。
私は風にふわりと舞い上がる緑葉を目で追いかける。
そして、小さく呟いた。
(さよなら、癒やしの魔女)
(ありがとう、……リセ)
風に舞うそれは、人々に幸せを与えた、あの葉だったのかも知れない。
了